『ティムティム?』
【ブワセック!】
『お話を始めよう。これは偽の島に辿り着いた、ある怪人と、彼を取り巻く人々の物語』

第三十三夜:蛍火の宙




 ※今回の日記は、青毛那智さん、町屋と古銭さんの日記・リンク先と併せてお読み下さい。※



 今宵遺跡外の片隅に出現した一夜限りの夜店の群は、人いきれと喧騒に包まれていた。
 足を踏み入れた瞬間からそこかしこから漂う、甘ったるい菓子類や鉄板の上で香ばしく焼けるソース、人々の
発する浮き立つような気分、仄かな化粧や酒気、雑多なものが入り混じり充満した香気に、怪人の嗅覚は刺激さ
れ続けていた。
 彼らの熱に酩酊するように、己もまた心が沸き立つ。
 
 ビル街の屋上から見下ろした遠い街角や、四角に切り取られた画面の中に垣間見た事のある、色鮮やかな飴や
風船、水槽いっぱいに泳ぐ金魚の鱗の一枚一枚に至るまで好奇心を掻き立てられぬものはない。

「ね、ね、あれは何かな!?雲?雲を売ってるの?色がついた雲、売ってるよ!」

 隣に歩く町屋に一々説明を求めては、子供に言い聞かせるように平易な言葉を選んで教えられる事柄に耳を傾
ける。
 その間も落ち着き無く揺れる体は、常とは違いごつごつとした甲殻に覆われてはいない。
 鮮やかな桃色の髪と特徴的な顔立ちは、先日知り合った探索者の一人───バンドのボーカリストだと言う青
毛那智から拝借したものだ。この催しが和装を推奨していると言う事もあり、また女性に同行を願い出るにあた
り、急遽頼み込んだのだ。

「だってさ、僕が怪人のままだったらさ、一緒にいる子変な目で見られちゃうでしょ」
 ミュージシャンと一緒だったら自慢できるけどさ。ね、そうでしょう?」

 浴衣を見立ててくれた仲間の少女は、その言葉に複雑げな視線を寄越したが、肯定も否定もせずに、送り出し
てくれた。
 折角丹念に縫い上げられ、蛍見の会場へ出向く前に町屋に着付けて貰った浴衣も、子供じみた所作のおかげで
着崩れ始め、フレグランスの───那智の体格を模した───痩せた胸板が覗いていた。
 
「で、溶けた飴が冷えて固まるから──ふわふわの糸の集まりで、綿のようになるんだよ」

 駄菓子屋を営む娘は、流石に菓子の製法に詳しい。説明を終えると、小首を傾げて理解できたか確認するよう
見上げる仕草も、服装の所為か何処かしっとりと艶めいて見えるようだった。

 それを見返すフレグランスは、傍目からは偉く無愛想に映った事だろう。
 何の色も浮かべぬ無表情は、平素から表情筋を動かす事などない怪人にとっては怠慢ではなく擬態し切れぬ機
能の一つ、だった。

「あっ、そうだ、今の話、なっちゃんにも教えてあげよう! ちょっと待ってて、すぐ戻るから!」

 そそくさとその場を離れる。

「なんだろ、今日あっついな……」

 いつもと違い髪を黒く染めた那智の姿は雑踏の中に溶け込んでいる事だろう。
 時折鼻を鳴らし、警察犬が匂いを辿るようにして彼の行く先を探しながらごしごしと手の甲で頬を擦った。暑
い、暑い、と口に出して繰り返しながら思い浮かぶのは小首を傾げた町屋の仕草で、

「違う!町屋ちゃんじゃなくてなっちゃん探してるの!」

 大きな独り言に、周囲の蛍見客達がぎょっとして振り向く。それに構わず、また鼻に感じられる気配を選り分
けて、小走りに走った。
 「那智にも教えてあげる」と一々報告に行くその行動が、女の子とのはじめてのデートへの照れと緊張から来
るものだとは当人すら全く気付かぬままに。



「なっちゃんのニオイは こっち〜…」

 那智の香りを辿って歩く。目を閉じれば浮かぶ鮮やかなピンク、結び付くは満開の桜の枝を揺らす華やかなギ
ターの音色。
 彼のバンドが開いていた花見の席の記憶と共に、甘酸っぱい香気として認識している気配の主を探る怪人の耳
朶を、乾いた音が震わせた。
 
「ん?」

 人ごみの中に軽いどよめきが起っている。好奇心の強さはこの島の探索者に共通するもの、なのだろうか。
 興味深げに一点を覗きこんでいる人垣の合間を縫い、体を割り込ませて見れば、テレビドラマなどで見覚えの
ある光景が広がっていた。
 今まさに二度目のびんたを食らった男が倒れこみ、怒気も露な女性が立ち去ろうと言う場面。

「これ、僕知ってるよ。テレビで見たもん」
 修羅場って言うんでしょ?」
 
 今、倒れこんでいる男は己と同じ顔をしていたけれど。
 喧嘩は良くない。そう諭しながらひょこひょこと近寄って見れば、突如現れた己の顔と、倒れこんでいる本物
の、那智の顔を呆気に取られた表情で見比べている女性にも、見覚えがあった。

「あ、僕知ってる、ゆらちゃんのストーカーの……」

「……ち、違いますってば!」

 同じ顔の男を二人目の前にして事態を理解しつつあるのだろう、シャノンの理知的な顔立ちが朱に染まって行
く。あ、何だか湯気でも出そう……暢気に考えながら、目まぐるしく変わる表情と香気───これはきっと興奮
や発汗などから生じる実際の───、怪人はそれを興味深く味わった。


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